何億年のむかし、現在の熊本市の大部分は一面の海底で、処々に小島が散在するに過ぎなかったと想像されるが、その後数次にわたる地表上の大変動によって、次第に熊本平野が形成されるにともない、現在の出水・健軍方面の砂礫層から湧き出る清冽な泉をめぐって、縄文人・弥生人の聚落が完成されていった。
古墳時代を経て飛鳥時代に入り、大化改新(645年)が行われると、託麻の三宅郡(今の出水地方)には、肥後の国府「託麻府」が設けられ、宏壮な伽藍の国分寺の建立を見たが、これらを中心とした聚落が形づくられ大きくなったものが、熊本市の始まりである。
奈良朝前後の日本各地は、国力の大小によって、大・上・中・下と四等級に区分されていたが、肥後はそのころ農産物産出量で九州諸国中群を抜いており、延暦14年9月(平安の初期)に至って、全国中でも優位の資格を認められ「大国」に昇進した。
この期に国司として、肥後に赴任した道君首名、紀夏井、藤原保昌、清原元輔等はいまも幾多の遺跡を留めているが、とくに後撰集の選者で、清少納言の父元輔と、平安期歌人「檜垣女」との交遊の説話は有名である。
南北朝50年間は、戦乱の日が相次ぎ、熊本地方もしばしば軍営の場に利用された。
長い戦乱のあと、天下が統一されるや、肥後全土の守護職は改めて菊池氏に委ねられ、一国政令の中心は隈部(現在の菊池市)の方に移った。
降って、応仁の項菊池の一族出田三郎秀信は、いまの熊本城東部の丘陵に千葉城(熊本城の始め)を構えたが、次の鹿子木親員が、明応年間(1490年代)に、今の古城の地に居城を移し、隈本城と称えた。ついで、城親冬と、佐々成政のあとを承けて天正16年(1588年)加藤清正が入城するにおよんで、清正は国府の二本木方面から、寺院、商家などを移転させて、城下町の経営に着手した。
また、この清正は熊本の自然に、はじめて大規模な人為のツルハシを振った武将で、河川、その他の土木事業に残した功績は大きく、熊本市が城下町としての体裁を整えてきたのは、このころからである。日本三名城の一つとうたわれる熊本城は、この清正が慶長6年から12年にかけ、7カ年の歳月を費やして築城したものである。(築城年については異説もある)
細川氏時代は、寛永9年細川忠利の入国によって始まるが、細川氏は爾来大政奉還の日に至るまで、200有余年間にわたって肥後熊本の政治を行った。この細川氏は、歴代名君相次いだが、そのうち、もっとも注目すべきは、延亭4年藩主となった8代重賢の政治であろう。このとき国政揚り、教学も大いに振興した。とくに藩校「時習館」や、全国にさきがけて創設された医療ないし教育機関としての「再春館」、薬草研究で有名な「蕃滋園」などは、本市が長く文教の府として全国に秀でた因となった。また忠利のときに創建された水前寺(成趣園)は、幽斉ゆかりの古今伝授の間とともに、いまも熊本市の観光資源の一つとなっているが、晩年を熊本に送った剣聖宮本武蔵の遺跡も、熊本が持つ誇りの一つといえよう。
明治4年7月に入って、廃藩置県の大詔が出されると、肥後には、熊本、人吉の二県がおかれ、ついて同年11月改めて熊本、八代の二県となった。ところが翌5年6月熊本県は、ふたたび白川県と改称され、翌々6年1月には八代県が廃止されて、白川県に併合されたため、肥後全域は白川県の所管となり、熊本市には県庁が設けられた。これは明治9年1月まで続いたが、同年2月さらに改めて熊本県と称せられるようになった。
このころ熊本城には鎮台がおかれ、市内には洋学校と、西洋医学の熊本医学校ができて熊本市は城下町としてにぎわいを見せていたが、9年の神風連事件、翌10年の西南の役と引き続き大きな戦禍に見まわれ、とくに西南の役では、全市街が焦土と化してしまった。22年4月、市制が施行されるとこれまでの「熊本区」は、「熊本市」と改められた。
明治の初年から、九州における政治・軍事の中心として、各種の官庁が置かれていた熊本市は、24年鉄道の開通によって熊本駅が設けられ、又30年代に入って市区改正の大事業が行われ、中央部の山崎練兵場が市外に移されて新市街が出現するや、会社、工場、商店その他施設が続々と軒を連ね、日清、日露の戦勝の意気も加わって、明治の隆昌期を現出した。
大正10年、周辺11ヶ町村を併合して大熊本市の基礎を固め、私鉄菊池軌道、熊本軌道、御船鉄道及び国鉄宮地線の開通整備と並んで13年には、市電の開通があり、更に上下水道施設、二十三聯隊の移転等によって、いよいよ近代都市の面目を新たにすることになった。
しかし、昭和20年には空襲を受けて全市の大半は瓦礫と化したが、その後全市民の不断の努力によって、戦災、水害等各種の苦難を克服し、今日の隆盛を見ることができた。
市制施行当時は、面積5.55平方キロメートル、人口4万2千余人を数えるに過ぎなかったが、近代的都市機能の集積や平成20年10月の富合町、平成22年3月の城南町、植木町との合併をはじめとする市域の拡大等によって、今や面積390.32平方キロメートル、人口約74万人にまで成長し、平成24年4月には全国で20番目、九州で3番目の政令指定都市へと移行した。
平成28年4月に発生した「平成28年熊本地震」では、史上類を見ないM6.5の前震とM7.3の本震が同時期に発生。本市や近隣自治体をはじめ県内に大きな被害をもたらした。この経験、教訓を未来の糧として、市民・地域・行政が総力を上げ一日も早い復旧・復興に取り組むため、震災から半年の平成28年10月「熊本市震災復興計画」を策定。
震災からの復旧と地域経済の回復を図るとともに、防災面の強化や都市としての更なる魅力向上など、創造的復興に取り組み、豊かな自然と歴史・文化に恵まれ、あたたかいふれあいに満ちた地域の中で、お互いに支えあいながら心豊かで幸せが営まれているまち。市民一人ひとりが、自分たちが暮らすまちに誇りを持ち、夢や希望を抱えて、いきいきと多様な生活を楽しんでいるまち。このような、市民が住み続けたい、だれもが住んでみたくなる、訪れたくなるまち、熊本市の目指すまちの姿「上質な生活都市」の実現を目指している。